「人に教える」という言葉で括ることが適切かは迷いましたが、いいタイトルが思い浮かばなかったので。
今から引用する箇所の前後を私の言葉で補足します。サビヤという者が、自分の抱えている疑問を「覚っている」人に教えてもらいたいと思っていました。そこで2人のバラモンに対して尋ねたところ、どちらのバラモンもサビヤの問いに対して満足のいく回答をしてくれなかったばかりでなく、反問(何でそんなこと言うんじゃボケみたいに言われたと言うことでしょうか)されてしまいました。なのでサビヤは、もう駄目だ、誰も解決してくれないし、もう世の中好きなもの食って、好きなことして適当に生きようと思いました。しかしその時ゴータマさんのうわさを聞き、最後に彼にだけは駄目もとで逢っておくかと、サビヤがゴータマさんのところへ訪ねていったときの話です。
- サビヤがいった、「疑いがあり、惑いがあるので、私は質問しようと願って、ここに来ました。わたくしのためにそれを解決してください。わたくしが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えてください。」
- 師は答えた、「サビヤよ。あなたは質問しようと願って、遠くからやって来ましたね。あなたのために、それを解決してあげましょう。あなたが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えましょう。サビヤよ。何でも心の中で思っていることを、わたくしに質問なさい。わたくしは一つ一つ質問を解決してあげましょう。」
- そのとき遍歴の行者であるサビヤはこのように考えた、「まことにすばらしいことだ。まことに珍しいことだ。、--わたくしが他の<道の人>たち・バラモンたちのところでは機会さえも得られなかったのに、道の人ゴータマがこの機会を与えてくれた」と。かれは、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、師に質問した。
「ブッダのことば スッタニパータ 訳:中村元」
スッタニパータ 第三 大いなる章/六 サビヤ
ここでサビヤは水を得た魚のようにゴータマさんに質問しまくり、彼の疑問が解消されます。そして後に彼は聖者の一人になったとのことです。
また、以下は、アジタという学生が、彼の師であるバーヴァリの問いを解消するためにゴータマさんのところに使いへ行ったときの話です。バーヴァリの問いは解決し、アジタはゴータマさんへそのお礼を伝えました。そのときにゴータマさんが言った言葉です。
- バーヴァリにとっても、そなたにとっても、いかなる人にとっても、もしも疑問が起って、心に問おうと欲するならば、何でも質問なさい。
「ブッダのことば スッタニパータ 訳:中村元」
スッタニパータ 第五 彼岸に至る道の章/一 序
ここからは延々と学生の質問が続きます。この一言がきっかけとなり、アジタ本人やアジタに同行していた他の学生は、様々な疑問をゴータマさんへ質問することが出来ました。この一言がなければ、アジタは質問出来ていなかったような気がします。この一言があったからこそ、アジタや同行していた他の学生は質問できたのだと思います。
他に、ここでは前後関係は説明しませんがもうひとつだけ挙げます。
「ブッダのことば スッタニパータ 訳:中村元」
スッタニパータ 第二 小なる章/五 スーチローマ
ゴータマさんのこういった対応は枚挙に暇がありません。とても多いです。それらに共通した特徴としてゴータマさんは、その人の抱えている疑問の内容に応じてカスタマイズし、質問者にとってわかりやすいように説明してあげているように私は感じます。なかには極端な言い方をしているものもあり、もしかするとそれらはゴータマさんの考えている本質の事柄をストレートに表していないかもしれません。実は回りくどい言い方をしているとも言えます。しかしそれは一足飛びに本質にたどり着かなくとも(というか、いきなりそう出来る人は少ないので)、それが誤りを表していなければ、その人が今の段階で理解しやすい方法でまず理解すればよいと言うことのようです。
また、ゴータマさんは人に対して説明することを全然めんどくさがってない気がしますし、職人気質と言われるような「見て盗め」でもありません。少なくとも、「見て盗め」というやり方でうまくいくためには、相手にそれなりの能動的なモチベーションが必要でしょうから、先ほど挙げたサビヤさんのような、既に二人のバラモンから不本意にあしらわれ懐疑心いっぱいの人にはそぐわなかったでしょう。