ゴータマさんはことあるごとに、あらゆる執着を捨てましょうと言っているように思います。
「仏弟子の告白―テーラガーター 訳:中村 元」 テーラガーター ひとつずつの語句の集成 ゴータマ長老
- 婦女たちに束縛されない聖者たちは、安らかに眠る。実につねに警戒してまもらねばならぬ人々(婦女たち)のあいだにあっては、真実を得ることは、きわめて難しい。
- 愛欲よ。われらは、お前を殺してしまった。われらは、いまやお前に負い目は無い。われらは、いまや安らぎ(ニルヴァーナ)におもむく。そこに至れば悩むことがない。
- もろもろの欲望は苦しみである。エーラカよ。もろもろの欲望は安楽ではない。エーラカよ。もろもろの欲望を求める人は、(実は)苦しみを求めるのである。エーラカよ。もろもろの欲望を求めない人--かれは苦しみを求めないのである。
「仏弟子の告白―テーラガーター 訳:中村 元」
テーラガーター ひとつずつの語句の集成 エーラカ長老
こういった世俗的な欲望のようなものは現代の感覚でも結構イメージしやすいと思う(最初のやつは微妙ですが)のですが、ゴータマさんの言う執着とはもっと広い意味を持つようです。
悪魔ハーピマンが言った、
- 「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執著するもとのものは喜びである。執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。」
師は答えた、
- 「子のある者は子について憂(うれ)い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」
「ブッダのことば スッタニパータ 訳:中村元」
スッタニパータ 第一 蛇の章/二 ダニヤ
- この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるか解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。
- 生れたものどもは、死を遁(のが)れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。
- 熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれはにはつねに死の怖れがある。
・・・
- このように世間の人々は死と老いによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。
・・・
- 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。
- みずから自己を害いながら、身は痩せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。
- 人が悲しむのをやめないならばますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕われてしまったのだ。
・・・
- 己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が(煩悩の)矢を抜くべし。(煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。
「ブッダのことば スッタニパータ 訳:中村元」
スッタニパータ 第三 大いなる章/八 矢
今の世の中はハーピマンっぽい考えのほうが浸透しているので、この言葉が現代でそのまま受け入れられるかどうかは微妙だなと思います。今のメジャーな映画とかドラマとかの多くが受け入れられなくなりますよね。こういった物語を盛り上げるための要素、例えば家族や仲間を殺された怒りを糧に強くなるとか、子供のために頑張って働く、とかそういったことは駄目だということになると思います。
私個人的には世俗的な執着が無いと面白くないと思っているので、この点はゴータマさんの言うような考え方にはなれないなあと思います。でも、あらゆる世俗的な執着を捨てないと一喜一憂して苦しいですよね、というのは理解できるような気がします。